| 沖縄の、とくに北部の今をひらいたのが「海洋博」とするのは言い過ぎかもしれません。でも「海洋博」をきっかけに、北部の道が進化したのは、まぎれもない事実。道は、人を運ぶだけでなく、経済や文化を運ぶもの。太くスムーズかつ安全な道づくりは、地域の発展に不可欠なのです。北部の今につながる「海洋博」の時代をのぞいてみましょう。
沖縄が本土復帰を果たしてから約3年がたった1975年7月20日、本部町で「沖縄国際海洋博覧会」が開催されました。「海-その望ましい未来」をメイン・テーマにしたこのビッグイベントのために、計画当初は本土に別の候補地が挙っていましたが、「本土復帰記念事業」を訴える沖縄県の声が受け入れられて、本部が開催地に決まったのです。透き通るように青い海と、そびえ立つ鉄鋼性の巨大なパビリオン「アクアポリス」。美しい自然と未来的な建築物の強烈なコントラストは、これからはじまる新時代の沖縄として人々の目に映った、といわれています。世界から36カ国が参加し、科学技術・海洋・民族・歴史などのテーマで、近代的な施設が軒を連ねました。これらの建設資材運搬のために、そして500万人と予想された来場者のために行なわれた道づくりプロジェクト。それは沖縄の歴史がはじまって以来の、壮大なものでした。
「まったく目を見張りましたよ」と語る名護生まれの新里さんは、当時8歳。「クレーン車や、ロードローラーなんてそれまで見たことがありませんでしたから」。新里少年は次々とやってくる大きな工事車両を見たくて、毎日のように現場に通ったそうです。「いつも遊んでいた名護の海岸が埋め立てられて、大きな道が作られていくのを不思議な気持ちで眺めていましたね。たくさんの人がやってきて、働いて、そしてみるみる間に風景が変わっていく。父親に、あんなに大きな道をつくってどうするの?って質問したのを、よく憶えています」
新里少年が見たのは、名護市街を通る新58号線の建設工事。それまでの商店街を抜ける2車線の道から海岸の埋め立地に場所を移して、4車線の幅広い道へと生まれ変わっていく、その光景でした。
今、私たちが利用する国道58号線は、このときにできあがったもの。また、同じころ、石川から名護にかけて縦貫道路が造られました(現在は沖縄自動車道の一部)。本部半島縦断線が、名護と海洋博会場を直接結ぶ道として整備され、許田-名護間の4車線拡幅工事も行なわれました。那覇から北部へのアクセス、そして本部を中心とした現在の北部交通の基礎がすべて完成したのでした。
海洋博は7月20日から半年間にわたって開催され、沖縄の存在とその未来の姿を、日本国内だけでなく、ひろく世界へアピールしました。新時代のやんばるロードを走り抜けて会場を訪れた人々は、1日平均19,000人。総来場者数は350万人と記録されています。
反面、このときに失われたものもありました。たとえば「七曲がり」と呼ばれていた、名護のかつての海岸線もそのひとつ。「七曲がり」は、大小50カ所もの急カーブが連なる交通の難所で、事故が多発する区間として恐れられる一方、美しい海岸線の景観を形づくっていました。
七曲がりがあったころの名護を知っている島袋さんは「もし、あの自然が今あれば、名護は世界でもっとも美しい海岸線の街としてアピールできたはず」と言います。
「本土復帰を果たした当時としては、開発整備を急いでいたこともあったし、自然保護の観点から道路造りを行なうという英知もなかったのでしょう」。自然のかたちに沿って集落や道が作られ、育まれてきた沖縄北部の海岸沿いの景観。何百年も続いてきたものを、わずか数年で様変わりさせてしまう、開発のチカラのすさまじさ。「たしかにあのとき道が整備されなかったら、今の経済や観光を支えることはできなかったでしょう。しかし、自然や伝統こそが地域の財産として重要になってきている今こそ、道路整備もまた、自然に配慮したものになってほしいですね」。
現在、「なご写真のまちづくり委員会」で、写真を通じて自分たちの地域の魅力や問題点を掘り起こす活動をしている島袋さん。その声は、島袋さん一人のものではないでしょう。
「開発」には未来をひらくチカラと、なにかを失わせてしまうチカラの両方があるもの。そのことを、いつもしっかりと把握しながら、最善の道を考えていくことが、これからの道路づくりに携わる者の務めであることは確かです。
交通の面で、大きな遅れをとっていた北部地域が、未来に向かって大きくひらかれた「海洋博」の時代。やんばるロードの今の姿は、その延長線上にあるのです。 |