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やんばる国道物語

王府時代の道 (15世紀〜1879年)


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王府時代の道の種類

宿道・脇道・原道

 

道の種類
 

 王府時代の道路は「 宿道 しゅくみち 」と「 脇道 わきみち 」、「 原道 はるみち 」の3つに区分されていました。

   宿道は王府のある首里を起点として地方にのびる 公道 こうどう で、各間切の番所(今の町村役場)と番所を結んだ主要な道路です。宿次に使われ、沖縄本島の東海岸沿いの東宿と西海岸沿いの西宿がのびていました。
   脇道は、宿道の通っていない村々をつなぐ道や、西と東海岸をつなぐ道で、宿道に いで重要な道でした。
   宿道と脇道は、今でいうと国道と県道にあたり、原道は、田畑に通じる農道にあたります。
   宿道は、道幅が 8 しゃく (約2.4メートル)と定められていました。また道の両側に6尺(約1.8メートル)の幅がとられ、リュウキュウマツが植えられ、松並木になっていました。
   薩摩侵攻後は、 一里 いちり (約4キロ)ごとに一里塚が設置されました。ただし、宿道は平地だけではなく、山間や谷間、あるいは海岸にも敷かれていたので、場所によっては8尺以下の せま い区間もありました。
   脇道の道幅は5尺(約1.5メートル)と定められていました。原道については、実地調査を行い、その土地にあわせて道幅を決めていたようです。
   海岸に面した道路には、アダンやフクギなどの防風林が植えられました。
 
リュウキュウマツ並木(1955年頃)
 
今帰仁街道の兼次小学校前の松並木。昔の街道筋には松並木が至るところにあったといいます。[今帰仁村教育委員会]
   
道の修復「道ぶしん」
   17世紀末期には、首里城を中心とする周辺道路はすでに完成していました。道の修理については、1697年に出された『 法式 ほうしき (注1)には、「諸間切は、その道路と橋が小破したときは、補修しなさい」と、被害が小さい時は間切で補修を行うように記されています。このように、王府は、これまでの土木技術を踏まえて、道や橋が台風や大雨などで 破損 はそん したときには、できるだけ各間切で補修するよう指示しています。
   具体的には宿道の修理や橋を架ける場合に、間切の村々から 夫役 ぶやく (税としての労働役務)として人々がかりだされました。この道路の 普請 ふしん (工事)にかかる費用は、間切の村々に割り当てられました。工事現場では、番所の役人が出向いて 指揮 しき をとりました。
  18世紀初頭やんばるの宿道と一里塚
  18世紀初頭やんばるの宿道と一里塚
   
   
 
用語解説
(注1)『法式』
  『中頭法式』あるいは『田舎法式』ともいわれます。1697年王府より本島の各間切に布達された文書。地方における冠婚葬祭・農業・行政などにわたって書かれています。
   

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