明治二〇年代の貴重な記録 |
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1893(明治26)年、
笹森 儀助
という探検家が沖縄を訪れました。五月から十月にかけての五ヶ月間に沖縄本島はもとより宮古・八重山地方、
与那国
(
島まで足を運び、その間に見聞したことを翌94年、
『南島探験』
(
という本にまとめました。その内容は琉球における
踏査
(
の日々の記録で気温、天候、訪問先、調査事項等について日記風に
簡潔
(
に書かれています。1893年6月15日の記述には
先島
(
(宮古・八重山)に向かう予定だったところ、船の出港が延期になり、国頭地方に足を伸ばすことになったいきさつが書かれています。 |
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徒歩でなければいけない道 |
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笹森は、6月15日から24日まで国頭地方を探険しました。それを見ると6月18日の記録では奥間番所を出ると山が連なり数十の急な坂を上り下りするため
駕籠
(
はもちろん、牛馬も通れない険しい道のことを述べています。当時の国頭の坂について『沖縄県地誌略』では、
高坂
(
(与那)、
辺野喜
(
坂、
座中
(
(
座津武
(
)坂、
武見
(
坂(
宜名真
(
)、
大川坂(辺戸)など国頭の坂の多さにふれ、中でも座中坂が最も険しいと書かれています。座津武坂は 国頭村宜名真入口にある70メートルの岩ばかりの山に切り立つような急坂でした。笹森も両手で岩を
つかみ、体を岩肌にこすりながら這うようによじ登ったといいます。
6月21日の日付では牛馬の通れない久志間切の道にこれを県道というのは信じられないとなげいています。
このように当時の道は徒歩でなければ行けないような道でした。 |
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山林保護のため牛馬を用いず |
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那覇へ帰る前日の6月24日の談話(注1)の中で、国頭地方で
薪
(
材類運搬に牛馬を使わないわけは、道路があまりに悪く、
険しい坂が多く、重荷を負わせて通るのはあまりにもかわいそうであること。30年前まで山林保護のため、山林に牛馬を入れることを禁じていた習慣があり、この道を牛馬で行くことをやめていたという問答が記されています。笹森は民間の実際の状況を調査し、日本国の領土を自分の目で確かめようと探検旅行を始めたといいます。『南島探験』は単なる旅行日誌ではなく、明治20年代の沖縄の自然や人々の暮らしがわかる大変貴重な記録です。 |
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笹森儀助(ささもり・ぎすけ)
1845年−1915年。津軽藩士の子として弘前に生まれます。37歳まで弘前藩庁租税掛など役人生活。国力の実際を自ら確かめようと、91年から国内旅行。『南島探験』(1894年)はのちの南島研究の基礎となりました。94年から4年間奄美大島の島司を務め、のちに『拾島状況録』を残しています。
[『新南嶋探検』] |
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解説 |
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(注1)
名護病院長藤田千次氏と警察署長及び役所長代理の児玉誠之助氏と談話 |
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