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やんばる国道物語

近代沖縄の道(1879年〜1945年)


(10/11)

鉄道の登場

那覇から嘉手納までの軽便鉄道

 

海路と陸路を結ぶ
 

 1910(明治43)年、国は 軽便 けいべん 鉄道法を公布し、 設備の小さな「軽便鉄道」建設の動きが盛んになります。沖縄県でも1911(明治44)年、 県営 けんえい の軽便鉄道 敷設 ふせつ について話し合われました。
初めて沖縄に鉄道が走ったのは県営鉄道与那原線で、1914(大正3)年12月から営業を開始しました。 また、同年4月には、那覇から首里までちんちん電車(電気軌道)が開通します。電車は 旅客 りょかく のみでしたが、買物客や学生などの多くの人に利用されました。一方、県営鉄道 は与那原港と那覇を結び、東海岸から多くの荷物を運び沖縄の産業に 貢献 こうけん しました。
沖縄県 統計書 とうけいしょ によると、1906(明治39)年の県内荷馬車 の数は104台で、そのうち88台は与那原を 拠点 きょてん に運行されて いました。このことからも、与那原港は国頭地方からの物資が集められ、ここから県下一大 消費 しょうひ 地である那覇へ運ばれていたことがわかります。
1922(大正11)年、県営鉄道の 嘉手納 かでな 線 (那覇−嘉手納間、約23.6キロ)が開通しました。嘉手納にある 精糖 せいとう 工場の製品輸送が目的の一つでした。砂糖輸送料金は産業保護を目的に安く設定されていたため、 営業収入の八割は旅客収入で占めていました。当初は 蒸気機関車 じょうききかんしゃ でしたが、一1930(昭和5)年にはガソリンカーが旅客用として走るようになりました。 嘉手納−那覇間は途中15の駅があり、2時間半を要しました。1923(大正12)年に開通した糸満線 は、与那原線国場駅より分かれ、島尻郡の中央を通って糸満に抜けるコースでした。

 
  大正期の那覇駅構内(現在のバスターミナル)[那覇市文化振興課]
   
  沖縄鉄道・軌道路線図
   
「軍用鉄道」としても
   太平洋戦争がはじまると、鉄道の輸送量が増加しました。そこで輸送力増強のため、軽便鉄道では大型の 20トン級機関車の導入が決まりました。この対応のため、レールの取り替えが行われることとなりました。 与那原線は1927(昭和2)年からレールの取り替えがされました。嘉手納線は1942(昭和17)年、 レールの取り替え作業が始まりました。しかし、 空襲 くうしゅう など 戦時体制の突入により機能停止となりました。
  また、戦時 統制下 とうせいか 燃料 ねんりょう 不足でバス台数が減らされ、国頭郡や中頭郡では名護までの鉄道の 敷設 ふせつ が要望されるようになりました。1942(昭和17)年9月から二ヶ月にわたり、鉄道省によって調査が行われ、 計画が立てられましたが、戦時情勢の悪化によってうやむやになりました。県営鉄道も1945(昭和20)年3 月23日から28日ごろ、沖縄戦で破壊されました。
 
  牧港〜大謝名を走る嘉手納行き列車。
今の県営大謝名団地付近[『図説沖縄の鉄道』]
   

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