やんばる国道物語
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戦後は合衆国一号線から
軍作業は道づくりから
上陸した 米兵 ( べいへい ) がまず実行したのは、 道路の確保でした。「沖縄 侵攻 ( しんこう ) 作戦計画書」(アイスバーグ作戦) には「それぞれの 戦闘 ( せんとう ) 地域内において、35トン 荷重 ( かじゅう ) の 負荷 ( ふか ) に 耐 ( た ) える全ての 主要 ( しゅよう ) 交通道路の建設、再建工事及び修理担当の義務を負う」と記されています。 米軍は 読谷 ( よみたん ) 、 嘉手納 ( かでな ) の両 飛行場 ( ひこうじょう ) を 制圧 ( せいあつ ) すると、まず、道路の道幅を広げ、改修を手がけました。トラックによる物資や人員の移動、 戦車 ( せんしゃ ) などの通行の確保が 最重要課題 ( さいじゅうようかだい ) であったことがうかがえます。 「上陸ほどなく、沖縄 西海岸南部道路 ( にしかいがんなんぶどうろ ) には合衆国一号 線”の 標識 ( ひょうしき ) が各所に立てられ、道路が確保されるたび 工兵隊 ( こうへいたい ) の計画に従って、全主要道路に番号をつけられ、同じような方法で道路 標識が打ち立てられていった」と当時の 様子 ( ようす ) が 米陸軍部省戦史編集部 ( べいりくぐんしょうせんしへんしゅうぶ ) の資料にあります。収容された人々もすぐに 「一号線」(現国道58号)の整備に駆り出されました。 「一号線」は沖縄を 占領 ( せんりょう ) するうえで不可欠で、もっとも最初に 確保された重要な米軍の 施設 ( しせつ ) でした。戦後沖縄のキーワードのひとつである「軍作業」は、道づくりからはじまったわけです。
1号線の道路工事にかり出される人々(1945年4月)[月刊沖縄社]
名護七曲がりを行く米海兵隊将校団(1945年4月)[月刊沖縄社]
16号線の交差点に立てられた標識の横を通る軍トラックの列
(1945年)[沖縄県公文書館]