運送業のはじまりと発展 |
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陸上
でいろんな
貨物
(
を
輸送
(
するためのトラック運送業は、琉球政府
直営
(
のモータープール(注1)を中心に、米軍から与えられたトラックと、住民個人の
荷馬車
(
によって運営されていました。1949(昭和24)
年12月、モータープールに代わって民営トラック会社二社(轄同トラック、渇ォ縄運輸)が設立されま
した。さらに1950(昭和25)年には、ガリオア
資金
(
によ
り国産車の
輸入
(
に許可されると、民間の運送企業が続々と
活躍
(
するようになりました。特に、やんばるではトラック
輸送が盛んに行われていました。
那覇では、
燃料
(
用として
薪
(
の
需要
(
が多くあり、やんばるの薪が引っ張りだこだったといいます。
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北部横断道路 |
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1958(昭和33)年、国頭村西海岸側の
与那
(
と
東海岸側の
安田
(
間の横断道路(現・県道2号線)が開通しました。
それまでは、
辺土名
(
−
奥間
(
間、
安田
(
−
与那
(
間、
楚洲
(
−
宇嘉
(
間の横断道路がありましたが、急坂の連続
で、しかも人ひとり通れるぐらいの細道でした。そのため国頭村東海岸の集落は「
陸
(
の
孤島
(
」ともいわれ、
急病患者
(
が出ても、医者を呼ぶことはできずに、しかたなく病人を
籠
(
に
担
(
いで、西海岸まで歩くという、大変な不便さでした。
しかし国頭地区の横断道路を造るためには、
険
(
山の
斜面
(
を大幅に
削
(
らなければならないので、工事の
規模
(
が大きく、大変な工事になることは明らかでした。なによりその予算の
捻出
(
が大きな問題でした。
そこで、すでに着工されていた辺戸―奥間のように、役場が、米軍が利用する
演習
(
道との併用ということで道路整備を米軍に頼み、ようやくDE(米工兵隊)によって工事が着手されました。 その後、道路工事は、
政府直営事業
(
(注2)として続けられました。
山を削り開く工事は予想以上に
難
(
かしいものでした。まずブルドーザーで山
を切り開いてから道作りに必要な
測量
(
を行うという、型破りの
工事も行われました。工事は足掛け5年の歳月を要し、
全長約18キロに及ぶ与那―安田横断道路は、ようやく開通しました。このことにより、一日4、5台のトラックが
木材、薪、竹等を運び出すことが出来るようになりました。しかし、やがて時代が石油コンロ、ガスコンロに替
わっていくと、薪の需要は減っていきました。
沿線の山地が開発されるようになると、パイン、さとうきび、お茶、みかんなどが
栽培
(
されるようになり、産地から当日のうちに目的地に輸送されるようになりました。
また、必要な物資も以前と
比
(
べると、かなり早く手に入れることが出来るようになっていきました。 |
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『沖縄タイムス』1948年7月10日
1947年12月に着工された国頭横断道路の記事。危険な断壁の工事が多く、ブルトーザの運転手が毎日お神酒を上げて工事の安全を祈るほど難工事であることを報じている。 |
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旧久志村(現名護市)の辺野古薪炭運送トラック。横断道路の開通に伴い、東村からの薪がトラックで運び出された(1950年代)[『写真集やんばる100年』] |
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用語解説 |
(注1)モータープール
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本来は、自動車駐車場のことだが、ここでは米軍によって沖縄本島の八地区に設置された軍用自動車隊の集積所のことをいいます。GMCトラック、ジープなどを各地区4、50台ずつ配車し、食料や生活物資・復興資材などを運搬しました。 |
(注2)政府直営事業 |
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政府直営事業というのは政府所有の機材で、政府職員が直接工事に関わることで、予算措置をともなわない仕組みになっていました。 |
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