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やんばる国道物語


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やんばる国道物語

琉球政府時代の道 (1945年〜1972年)


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塩屋大橋の完成

夢の架け橋

 

「夢の架け橋」架橋へ
 

  大宜味 おおぎみ 村の 塩屋 しおや 湾は、津波と塩屋集落の間の 入江 いりえ で、湾の入り口には 宮城 みやぎ 島があります。王府時代には津波と塩屋の間を渡し舟で 往復 おうふく していましたが、 湾内 わんない 一周道路ができると内陸の 大保 たいほ 集落のほうまで 迂回 うかい してバスも運行するようになります。1937(昭和12)年には、宮城島との間に宮城橋が架けられました。
湾をつなぐ塩屋大橋の話が出てきたのは1955(昭和30)年のことでした。大宜味村は、民政府へ 陳情 ちんじょう を繰くり返し、北部地域の 振興 しんこう つと めた当時の琉球政府行政主席 大田政作 おおたせいさく のもとで、1959(昭34)年、事業が着手されました。村の 請願 せいがん から4年の歳月を経て、住民待望の夢の け橋が実現に向けて動き出しました。

  塩屋大橋のルートと湾内一週道路
   
工事着工
    橋梁 きょうりょう 建設のためには、まず 地質 ちしつ 環境 かんきょう などの調査を行い、予算との ね合いでルートや橋の種類を決めることになります。検討を重ね、最終的には宮城島と塩屋湾を結ぶ 浅瀬 あさせ を通したルートに決定されました。工事は、1960(昭和35)年4月17日に起工式を行ない、1963(昭和38年に完成しました。
塩屋大橋は、橋長307.5メートル、道幅8メートル、そのうち車道部6メートル歩道部が両側に各1メートルで、当時沖縄で一番長い橋でした。工事費は67万7000ドル、工事人員は5万304一人、鋼材320トン、鉄筋450トン、セメント1957トンの労力と資材が投入されました。
塩屋大橋の完成により、約8キロも 距離 きょり 短縮 たんしゅく されて、湾を渡るための時間も大幅に短縮されることになりました。
 
  塩屋大橋開通を祝う人々(1963年)
[『琉球のあゆみ』]1963.7.8合併号]
   
親しまれた「赤橋」
   1963(昭和38)年5月、銀色に光 かがや 美しいアーチ橋が塩屋湾に登場しました塩屋大橋といえば赤橋で有名でしたが、実は完成当時の色は銀色だったのです。開通式は6月5日、大田政作行政主席、マキューン民政官などが出席し、祝賀のハーリー、エイサー、 角力 すもう 大会など、村民 げて盛大に行われ、記念切手も発行されました。
完成した塩屋大橋を一目見ようと、中南部から観光バスやマイカーが めかけ、橋一帯は北部の新たな観光スポットになりました。
塩屋大橋は、1978(昭和53)年に、周囲の緑と海の青とマッチするように赤色に塗り替えられました。以後、「赤橋」の名前で多くの人に愛され、1999年3月、新しい塩屋橋にバトンタッチするまで利用されました。地元の人たちには「さーばし」(注1)と呼ばれ親しまれました。
 
  「赤橋」と親しまれた塩屋大橋(1999年)
 
  塩屋大橋の完成を祝って発行された
画家の大嶺政寛氏が描いた塩屋大橋記念切手
 
  塩屋大橋工事中のコンクリート打設[大城榮篤]
  塩屋大橋以降の主な橋
塩屋大橋建設以降の主な橋(150m以上)
   
 
  大宜味方面から塩屋大橋、宮城橋を望む(1994年)
   
   
 

用語解説

(注1)さーばし

塩屋は、方言では「さー」と呼ばれています。田港・屋古に対して「下方」という意味です。ペリーが作った海図では「SHAHBAY」(シャーベイ)とされています。

   

やんばる国道物語(北部国道事務所)

 

   
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