大宜味村田嘉里の屋嘉比(川を上ると、上流の右手に見える山が、喜界祝女(ノロ)の哀話が伝えられている「くがり山」です。
昔、屋嘉比村の山口家の祖先は、船を所有して、奄美諸島(と交易(をしていました。ある年山口家の祖先の1人の男が喜界(島へ渡って、美しい喜界祝女にひと目ぼれしました。男はその美しい祝女を口説いて、屋嘉比村へ一緒につれて帰りました。
ところが、実はその男には、屋嘉比村にれっきとした妻がいたのです。喜界祝女は「だまされた、どうしよう」とくやしがりましたが、すべてあとの祭りでした。
神に仕える身を捨てて、はるばる海を越えてやってきた喜界祝女はいまさら喜界島に戻るわけにもいきません。喜界祝女は仕方なくその男の世話になって、屋嘉比村に住んでいました。
ある年、屋嘉比村は飢饉(にみまわれました。村人は日々食べ物に困り、山口家の男も、愛人の喜界祝女の面倒をみなくなってしまいました。喜界祝女は泣く泣く村を離れ近くの山に入り、たいへん貧しい暮らしをしたといいます。
ついには喜界島を恋焦(がれたまま死んでしまったそうです。その後、土地の人は、この喜界祝女のこもった山を「くがり山」(恋いこがれの山)と呼ぶようになったそうです。
またある言い伝えによると喜界祝女には、子供もいたということです。土地の人によると、その山からは近年お骨も出たと言います。川沿いにくがり山へ近づくと、今でも野鳥の鳴き声あたりの静寂(を破って響(いてきます。
旧暦(七月のウンガミまつりのあと、屋嘉比村では臼太鼓(が山口家前広場で奉納されますが、くがり山の伝承にまつわる次の歌があります。
くぬ山(じ泣(ちゅし 聞(く人(や居(らん
吾(が泣(ちゅし聞(く者(や山(ぬ響(ち
「この山で泣いても、だれも聞く人はいない。わたしが泣くのを聞くのは、山びこだけである」という意味です。 |