名護市街地の入り口に位置する許田の集落は、かつて難所(だった名護の七曲(がりをしのばせる、緩(やかな美しい入江に面して、静かにたたずんでいます。
「名護六百年史」によると「昔は許田の渡しにも舟も架橋(になかった。旅人は内海沿いに福地・古知屋又の宿を遂に迂回(して行った。
入江の口から二町(ばかり、村はずれの往来に樋川(があって、昔も今も村人の用水に使われている」と紹介されています。この樋川が、有名な「許田の手水」の伝説の舞台です。
その昔、首里からやんばるへ向かう旅の途中の若い侍(がいました。許田へ差しかっかたころ、のどが渇(いたのでどこかに井戸はないかと道中の人にたずねると、近くの森の下に樋川があることを教えられます。
急いで樋川に行くと、美しい村の娘が水を汲(んでいました。侍は思わず「娘さん、のどがかわいたのであなたのその手で水を汲んで飲ませてくれませんか」と、手水をお願いしました。
どこの誰かもしらない旅人に、しかも手水で・・・娘は顔を赤らめて、断ってしまいました。
若い侍はそれでも諦(めきれずに何度も頼むと、やがて娘は恥(ずかしそうに、その侍に樋川の水を両手で差し上げました。首里から帰ってからも、その侍は許田の手水の娘のことが忘れられず、とうとうその娘を首里に呼んで妻にしたと伝えられています。
このロマンスにあやからろうと、各地から若い男女が許田へ訪れ、許田の手水の伝説は有名になりました。
国文学者の平敷屋朝敏((1700〜1734)は「許田の手水」の民間伝承(に感激(して、戯曲(「手水の縁」を書きあげました。「手水の縁」は組踊(りの古典として現在でも上演されています。 |