昔、琉球王国として統一されていなかった頃の沖縄は、「北山」「中山(」「南山(」の三つの地域に分かれていました。金武(より北の地域は「北山」と呼ばれ、現在も世界遺産として残る、今帰仁(城を拠点として、代々の北山王が治(めていたそうです。
攀安知(が王として北山を治めていた頃、志慶真(村に、乙樽(という美女がいました。「シゲマ・ウトゥダル」とも呼ばれて、その美しさは周辺の村々でも評判となり、絶世の美女と讃(えられます。
心優しかった乙樽は、やがて「今帰仁御神(」と呼ばれて、人々に敬(われました。その評判は今帰仁城にも届き、王に召(し抱えられることになりました。乙樽は大変な喜びであったといいます。その当時の今帰仁村と乙樽の美しさを詠んだ琉歌があります。
今帰仁(の城(、霜(ないぬ九年母( 志慶真乙樽(が ぬちゃいはちゃい
乙樽は、王の寵愛(を受けて、何不自由なく幸せに過ごしていました。しかしなかなか世継ぎが生まれなかった北山王はやがて大病(にかかり、伏(せてしまいました。そんな時、王妃(が身ごもります。
しかし王の病気は回復することなく、臣下(に王子を大切にするよう言い残して亡くなってしまいました。その後生まれた子供は世継ぎとなる男の子で「千代松」と名付けられました。乙樽は大変喜びその子を慈しみ、お世話していました。
ところが、千代松の満産(出産)のお祝いが今帰仁城で開かれた夜、臣下のひとり本部大主が謀反(を企(てて城を攻めてきました。あっという間に城は燃え上がり、いよいよ落城(とかいう時に、乙樽は、まだ幼かった千代松を背負って、潮平大主に伴われて、今帰仁城を脱出しました。
ある伝承(では、今帰仁の山中の道を千代松を背負った乙樽は、東へ東へと逃げていき、湧川按司(のもとに逃げて助かったといわれています。「背負う」ことを「ウッパ」と言い、それ以来、乙樽が王子を背負って逃げた山をウッパマ(乙羽山)というようになったともいわれています。
いずれにせよ、千代松は無事に逃げおおせて、北山から遠く離れて、その身をかくしていました。
やがて千代松は青年となり、名を「丘春」と変えて、かつての臣下を従えて、勘手納(港に集結して、今帰仁城に攻め上がり本部大主を討ち、今帰仁城を取り戻しました。その後乙樽とも再会を果たし、乙樽は北山最高意のノロになったということです。
今でも今帰仁は、乙樽の伝説が伝えられて、美人の村として知られています。 |