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やんばる国道物語


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やんばる国道物語

やんばるの伝説をたずねて


 (12/23)

今帰仁御神と乙羽山由来

(今帰仁村)

 

 昔、琉球王国として統一されていなかった頃の沖縄は、「北山ほくざん」「中山ちゅうざん」「南山なんざん」の三つの地域に分かれていました。金武きんより北の地域は「北山」と呼ばれ、現在も世界遺産として残る、今帰仁なきじん城を拠点として、代々の北山王がおさめていたそうです。

 

 攀安知はんあんちが王として北山を治めていた頃、志慶真しげま村に、乙樽おとだるという美女がいました。「シゲマ・ウトゥダル」とも呼ばれて、その美しさは周辺の村々でも評判となり、絶世の美女とたたえられます。

 

 心優しかった乙樽は、やがて「今帰仁御神なちじんうかみ」と呼ばれて、人々にうやまわれました。その評判は今帰仁城にも届き、王にし抱えられることになりました。乙樽は大変な喜びであったといいます。その当時の今帰仁村と乙樽の美しさを詠んだ琉歌があります。

 

  今帰仁なちじんぐしくしもないぬ九年母くにぶ 志慶真乙樽しじまうとぅだるが ぬちゃいはちゃい

 

 乙樽は、王の寵愛ちょうあいを受けて、何不自由なく幸せに過ごしていました。しかしなかなか世継ぎが生まれなかった北山王はやがて大病たいびょうにかかり、せてしまいました。そんな時、王妃おうひが身ごもります。

 

 しかし王の病気は回復することなく、臣下しんかに王子を大切にするよう言い残して亡くなってしまいました。その後生まれた子供は世継ぎとなる男の子で「千代松」と名付けられました。乙樽は大変喜びその子を慈しみ、お世話していました。

 

 ところが、千代松の満産(出産)のお祝いが今帰仁城で開かれた夜、臣下のひとり本部大主が謀反むほんくわだてて城を攻めてきました。あっという間に城は燃え上がり、いよいよ落城らくじょうとかいう時に、乙樽は、まだ幼かった千代松を背負って、潮平大主に伴われて、今帰仁城を脱出しました。

 

 ある伝承でんしょうでは、今帰仁の山中の道を千代松を背負った乙樽は、東へ東へと逃げていき、湧川按司わくがわあじのもとに逃げて助かったといわれています。「背負う」ことを「ウッパ」と言い、それ以来、乙樽が王子を背負って逃げた山をウッパマ(乙羽山)というようになったともいわれています。

 

 いずれにせよ、千代松は無事に逃げおおせて、北山から遠く離れて、その身をかくしていました。

 

 やがて千代松は青年となり、名を「丘春」と変えて、かつての臣下を従えて、勘手納かんてな港に集結して、今帰仁城に攻め上がり本部大主を討ち、今帰仁城を取り戻しました。その後乙樽とも再会を果たし、乙樽は北山最高意のノロになったということです。

 

 今でも今帰仁は、乙樽の伝説が伝えられて、美人の村として知られています。

乙羽岳(275m)を望む

 


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