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やんばる国道物語


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やんばるの伝説をたずねて


 (15/23)

吉 屋 チ ル

(恩納村)

 

 吉屋よしやチルは、恩納ナベと並びに称される天才女流歌人です。1650年ごろ、読谷山ゆんたんや間切久良波くらは村(現恩納村字久良波)の新垣屋という豪農の家に生まれたと伝えられています。現在の恩納村山田の国道58号東南の丘の一角です。

 

 豪農だった新垣屋ですが、チルの父親が遊郭ゆうかくに通うようになると、次第に家運かうんが傾いて、とうとう家屋敷が人手に渡ってしまい、どん底の生活に転落しました。そのチルは、八歳という幼少の身で那覇の仲島遊廓に身売りされてしまいました。

 

 チルが親戚しんせきや友達に悲しい別れを告げて、父親と那覇に向かう道すがらんだ歌が伝えられています。

 

  うら比謝橋ひじゃばし 情ななさきねい人のんひとぅぬ 身渡みわたと思てとぅうみてぃ けておきてぃうちゃ

 

 16、7歳になると、チルの美しさと歌の才能は、首里の身分の高い さむらい たちの評判となり、チルは毎夜通う侍相手に歌のやりとりを楽しんだようです。

 

 昔の遊廓は、単なる男たちの遊び宿というだけではなくて、歌を 媒介 ばいかい にした上流層の社交の場であったといいます。チルは 上句 かみく を自分が詠んで、 下句 しもく を返さなければ相手にしなかったので、侍たちはさらに琉歌の勉強を重ねて、チルのもとに通ったといわれています。

 

 そんな生活のなか、チルはある侍と出会います。チルはその侍に「流りゆる水に 桜花うけて」上句を詠んでみました。すると侍は『色美らさあてど すくて見ちゃる」と下句を返しました。その人物こそ、のちの恋人 仲里里之子 なかざとさとぬし でした。

 

 琉歌の才覚があって、教養豊かな仲里里之子とチルは、しだいに深い愛情で結ばれるようになりました。

 

 そんなところに現れた、大金持ちで「黒雲殿」と呼ばれる男でした。遊郭の経営者に大金を積んだ黒雲殿は、強引にチルの相手に迫ります。大金に目がくらんだ経営者も、チルに無理強いをします。

 

 チルは悲しみと絶望ぜつぼうのあまり食を断ち、やがて栄養失調えいようしっちょうとなり悶死もんししたとも、波の上から身投げしたとも言われますが、わずか18歳ほどで悲劇的な死を遂げたのでした。

 

 後生に伝わるチルの琉歌には、和歌の影響を受けた かけけことば、緑語や独自の美意識びいしきが特徴で技巧ぎこう的で深い叙情じょじょうがあります。「美人薄命」とは天才女流歌人・吉屋チルのことを言うのでしょう。

 

チルが詠んだ旧比謝橋の模型碑

 


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