|
八重山は、古代中国、琉球との交流を通じて、琉球とは異なり、また、島々によっても異なるなど多様な風土・文化を育んだ歴史を持っています。

「海上の道をたどった人々」
太古の昔、八重山の島々に住み着いた人々がどこから来たのかについては「南進説」、「北進説」の諸説があり未だ謎に包まれたままです。
しかし、例えば波照間島の下田原(しもたばる)貝塚から出土した陶器や石器類が台湾の貝塚から出てくるものと酷似していることや、
ニライカナイの伝説、アカマター・クロマター、南波照間(バイバティローマ)の伝説、南与那国(ハイドナン)の伝説などを考えると、
少なくとも南方から黒潮に乗って北上してきた人々が少なからずあったであろうことは疑いないものと考えられます。
書物に残る南島に関する最も古い記録では「隋書」(629〜656年)における「流求」の習俗の記述がよく知られています。
ただし、この「流求」は実際には「琉球」ではなく、台湾のことではないかという節もあり、まだはっきりしていません。
また、「日本書記」の714年(和銅7)の記録では、太朝臣遠建治(おおのあそんおけじ)が南島奄美、信覚(しがき)、球美(くみ)の島人52人を率いて
太宰府に入貢したとあることが知られています。このうち信覚とは石垣島、球美は久米島または西表島の古見(こみ)のことではないかといわれています。
往古の南島人たちは、おそらく南はポリネシア、ミクロネシア、インドネシア、フィリピン、台湾を経由し、北は日本本土までの間の
「海上の道」を往来していたのでしょう。
かくして、八重山の島々にも人類の歴史が始まったのです。
なお、この八重山で人間が集落をつくり、住み着いたのは、おそらく西表島の祖内や古見などが最初ではないかと考えられています。 |
「ニライカナイの伝説」
沖縄の祭祀儀式の中にみられる独特の世界観。ニルヤ・カナヤ、ギライ・カナイともいう。海の彼方にニライカナイという楽土があり、
そこから島へ神がやってきて豊穣をもたらすという民俗的信仰。
沖縄各地に根強く残っている神観念ですが、八重山では「節」、「結願」「アカマタ・クロマタ」などの行事にその影が色濃く残っています。 |
朝鮮漂民のみた八重山

琉球の「グスク時代」(12〜14世紀)、八重山ではまた、酋長―島主という政治的支配者は存在せず
平和な純然たる祭政の時代が続いていました。
この頃の八重山に関する正確な記録は琉球側においてさえ非常に少ないのですが、
文字で書かれた15世紀頃の八重山に関する客観的な史料として、朝鮮の「李朝実録」という膨大な史料の中に
「朝鮮漂流民の八重山見聞録」というのがあります。
これによれば、1477年(尚真王即位年)2月1日、朝鮮済州島より出帆した船が暴風にあって漂流・難破し、
乗務員のうち3人が板にすがって流されているところを与那国島の漁船に発見され、救助されたということです。
彼らは与那国島の住民による手厚い救護を受け、約半年間滞在したのち西表島に送られて滞留約5ヶ月、さらに波照間島、新城島、
黒島、多良間島、伊良部島、宮古島と順々に送られ、那覇から博多経由で1479年、約3年後に朝鮮へ無事に送り届けられました。
このとき、帰国した彼らが琉球、八重山で見聞してきたことが「李朝実録」に残されており、当時の八重山の様子を知る上で
第一級の史料となっています。その見聞内容は、八重山の各島ごとの言語、飲食、衣服、住居、風習、植物、家畜、その他あらゆることにおよび、
当時の八重山諸島ののどかな風景や住民生活の様子などが彷彿としてきます。ただ、彼らは西表島からわざわざ一旦波照間島へ運ばれ、
新城、黒島を経ていながら竹富島と石垣島には立ち寄らず、いきなり多良間、宮古へ移送されています。
それが何故であったのか、今でも歴史の謎となっています。
|
群雄割拠とオヤケ赤蜂
八重山と琉球王国の関わりは、先の「朝鮮漂流民の那覇移送」に先立つ約90年前、1390年宮古島とともに初めて中山へ入貢服属して以来のことでした。
しかし、それでも入貢以後約100年間は、八重山は琉球における中山、南山、北山の抗争とは関わりなく、むしろ独自の歴史をたどっていました。
この頃、八重山では各地域ごとの有力者が互いに勢力を争う「群雄割拠時代」を迎えていました。
石垣島では石垣地区に長田大 ( ナアタフ ) 翁主 ( ウジイ ) 、川平地区に仲間 ( ナカマ ) 満慶 ( ミツケエ ) 山英極 ( マエイキョク ) 、
大浜地区にオヤケ 赤蜂 ( アカハチ ) 、平久保地区に平久保加那按司 ( カナアジ ) 、西表島には 慶来慶田城用諸( ケライケダグスクヨウショ ) と祖納当( スナイアタリ ) 、
波照間島には 明字底獅子嘉殿 ( ミウスクシシカドウン ) 、与那国島には女酋長サンアイ・イソバ、こうしたいわば地方豪族が力で地域を支配していました。
その間、琉球では 尚巴志 ( ショウハッシ ) が三山を統一(1429)しましたが、その第一尚氏王朝政権は長くはもたず、
40年後の1469年には尚円金丸がクーデターにより第二尚氏王朝を開きました。
この第二尚氏王朝三代目の国王尚真 ( ショウシン )王は、1486年中山特使を八重山へ派遣し、王府への入貢を拒んでいた島民から
年貢を取り立てるとともに伊里幾屋安真理( イリキヤアマリ ) の祭祀を厳禁し、勧農、風俗矯正を図り、また島外との交易を厳しく禁止しました。
これに反発して、琉球王朝に敢然と反旗をひるがえしたのが群雄の一人・オヤケ赤蜂でした。
赤蜂は他の酋長らにも檄を飛ばし、共闘を呼びかけました。しかし、彼に同調する酋長はなく孤軍奮闘むなしく、ついに鎮圧、誅殺されました。
|
琉球史上最大の大震災
明和8年(1771)宮古島から八重山諸島にかけて未曾有の大震災が発生しました。「明和大津波」と呼ばれる琉球史上最大の震災です。
地元八重山の史料では「大波之時各村之形行書」という記録が残されていますが、「東京天文台編纂理科年表」(1966)によれば現代風にいう地震の規模は
マグニチュード7.4に相当するもので、震源地は石垣島東南数十キロであったと推定されています。この地震により大津波が発生しました。
津波は石垣島においては旧暦3月10日辰刻五ツ時分(午前8時)頃宮良村海岸より上陸し、島の中央部から南側にかけての田畑、家屋、人畜を飲み込みながら、
名蔵方面へと通り抜けました。 津波の最大の高さは現在の宮良牧中において28丈2尺(標高約85メートル)と推定されていますが、
宮良川や磯部川、轟川などに沿って一挙に島の奥まで進入し、中央部で急速に増幅して想像を絶する奔流となり、ちょうど島を取り巻く海岸の岩の塊が陸上に押し上げられ、
濁流とともに島の中央部まで運ばれました。その痕跡が現在まであちこちに残っています。
一方、同時期に黒島、新城島などでは島全体が大波で洗われ、宮古島、多良間島などでも大きな被害が出ました。
先の「理科年表」によれば、宮古、八重山を含めた亡流者(被害者)数は、11,941名と推定されていますが、当時の八重山諸島の人口は
約3万人程度であったと推定されていますから、いかに被害が甚大であったかということがわかります。
|
廃藩置県後の八重山開拓

明治4年(1871)の廃藩置県から8年後の明治12年に琉球は沖縄県となり、これに伴って八重山では旧王朝の役所であった蔵元に
八重山島役所が設置され、行政、教育、産業、文化・習慣なども大きく様変わりしました。
行政では警察署、収税署、診察所、郵便局、通信所気象台、裁判所などが設置され、県議会選挙、八重山村会選挙なども行われるようになりました。
教育では明治14年(1881)石垣南小学校が士族の男子30名を強制入学させてスタートし、以後、白保、平得、川平、西表などの各地に
尋常小学校分教所、高等小学科等が設置されました。
産業では製糖業が始まり、旧首里王府の失業士族によるシィーナ原、川良原などの開拓、中川虎之助による名蔵開拓などが始まりました。
こうした中で、明治5年(1872)石炭試掘調査のため鹿児島藩の伊知地小五郎が琉球藩の官吏数名を伴い汽船・万年丸で来島しました。
これが八重山における近代的な汽船入港の始めと言われています。
次いで明治15年(1882)、山田海三、林徳太郎氏等によって、海運会社が始めて発足し、県所有の汽船・大有丸(500トン級)
を借り受けて先島航路を開設しました。
こうして交通の便が確保されるようになり、明治15年頃から30年頃にかけて、運送店(池畑運送)や商店(丸一商店、古賀商店)、
銀行(鹿児島百四十七銀行、県商工銀行)なども開設され、八重山の産業振興に一層拍車がかかるようになりました。
|
HOME PageTop 八重山の文化
|