港の歴史 −那覇港の歴史−琉球王朝時代
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港の歴史
那覇港の歴史
 
グスク時代 琉球王朝時代 明治・大正・昭和時代
琉球王朝時代〜那覇港のはじまり〜
●尚巴志王と首里城
 尚巴志は、沖縄本島南部の佐敷から攻め上がった風雲児で、中山王(浦添城)、北山王(今帰仁城)、南山王(大里城)を次々に制圧しました。
 尚巴志は、国の基本は貿易と農業と考え、旧那覇港を門戸とする首里に居城を移し、それまでにあった首里城を増築、拡大しました。その時に、土を盛って花や木、薬草を植え、「龍潭」を掘って魚を放しました。
 
■首里城
首里城
●那覇港の始まり
那覇港(旧那覇港)は、今から約500年前、初めて三山(沖縄本島)を統一した尚巴志が、中国との交易船の出発地点として開いたのが始まりといわれています。
当時は、浮島とよばれる小さな島々がある静かな入り江でした。
その後、琉球王朝の表玄関として中国を始め、東南アジア、朝鮮、日本との貿易を進め、東アジアの一大貿易港となってゆきました。
■旧那覇港
旧那覇港
トピック
尚巴志は首里から今帰仁までの西海岸沿いに沖縄本島を縦断する国道を開き、両側に松並木を植え、道のりの単位を改め、宿場を置き早馬での通信も始めました。 国道
●尚泰久王と万国津梁の鐘
尚泰久は、尚巴志の第7子で、40歳で6代目の王位につきました。平和と幸福を求めて仏教に帰依して、数多くのお寺を建立し、十以上の大きな鐘をつくりました。その中に「万国津梁之鐘」があります。この鐘には、「琉球国は南海の勝地にして三韓(朝鮮)の秀をあつめ、大明(中国)をもって輔車となし、日域(日本)をもって唇歯となす。舟楫をもって万国の津粱となし、異産至宝は十方刹に充満す」とあり、沖縄が朝鮮、中国、日本と深く関わり、東南アジアを含め広く貿易を行った為、豊かであったことを記しています。
沖縄は、遠い海外(シャム、マラッカ、スマトラ、ジャワなど)にまで荒波を乗り越えて貿易をした海洋国家だったのです。
■万国津梁の鐘
万国津梁の鐘
●外国貿易の発展
中継貿易早分かりパネル ■琉球王朝時代の交易船
琉球王朝時代の交易船
琉球王朝時代の初めは、中国の王朝に馬や硫黄(火薬の原料)などを贈り物として輸出し、その代わりに絹織物や陶器、鉄器が輸入されていました。
この中国との貿易や留学生が学んだ政治、経済、文化などの学問によって、中国から様々な文化的影響を受けました。現在の沖縄の風習や文化にもその影響が残っています。
その後、中国を始め朝鮮半島や東南アジアの国々と日本との貿易の中間地点として、沖縄は様々な国の品物や人、文化が集まる国際都市として賑わいました。
世界の中では小さな沖縄ですが、世界を結ぶ海の交差点として、その影響は大きなものだったのです。
●ペリー提督
1853年5月26日、日本開国の目的で琉球に立ち寄り、那覇港から上陸したペリー艦隊の一行は6月6日、首里城を訪問しました。
その後、那覇港を拠点として、小笠原諸島、浦賀、函館などを訪問し、琉米和親条約や神奈川条約を結びました。
このペリー提督の黒船来航が江戸時代の終わりをつげる、明治維新のきっかけになったのです。

下の絵は、首里城で歓迎を受けた一行が、首里坂をくだり泊に向かっている様子が描かれています。ペリー堤督が中央の駕籠に乗り、軍楽隊を先頭に215名の水兵の行列に、当時の琉球の人々がどれほど驚いたか想像にかたくありません。
絵左下の琉球の人々は、ペリー提督「日本遠征記」の本のさし絵に出てくる人々で、遠くに描かれているのが首里城です。

ペリーの航路
日本遠征記
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