|
明治・大正・昭和時代〜那覇港の発展〜 |
●港湾整備の推進 |
1879年(明治12年)「琉球処分」の数年後、沖縄にも蒸気船が就航するようになりました。
本格的に那覇港の整備が始まったのは明治40年からで、1,200トン級(約70m)の船を4隻同時に横付けできる棧橋や航路(幅72m、最大水深6.6m)が整備され、棧橋前には県営鉄道も引かれました。
大正時代には145mの岸壁が完成し、3,000トン級(約100m)の船も付けられるようになりました。
棧橋や岸壁がつくられる前は、荷物の積みおろしは小さな船に積み替えていましたが、この時期の整備によって那覇港と海上運送の近代化が進められたのです。
|
|
|
●沖縄〜本土航路の開設
1884年(明治17年)には、鹿児島、大阪とを結ぶ定期航路が開設されることになりました。 |
|
|
|
「琉球処分」
1879年3月31日、最後の中山王・尚泰が、城下の別宅へ立ちのいた後、首里城は熊本鎮台の軍隊(約400人)が駐屯しました。
後に熊本師団と呼ばれるこの軍隊は、日清戦争で日本が勝つ1896年までの17年間城下を監視しつづけました。 |
|
|
|
■山原船 |
■中国のジャンク船 |
|
|
沿岸や離島航路では古くから使われている「山原船」と呼ばれる板材で作った船が、昭和に入っても使われていました。
この船は中国の「ジャンク船」の影響を色濃く反映していました。
山原船は、国頭北部(山原)や離島との交通に利用されたもので、国頭方面からは薪炭や木材、那覇からは焼酎、白米、イモ等の食糧や石油、石炭などを運びました。
また、山原船の本島沿岸航路では、客は乗せず荷物の運送だけが風まかせで運航されました。
●米軍と那覇港
■終戦後の那覇港 |
■港の復旧 |
|
|
戦争で壊滅的な打撃をうけた那覇港は、港内に沈没船があり、航路も浅く物資輸送が困難でした。
県民にとって、また米軍にとっても港は重要な施設であったので、米軍はさっそく港の復興に力を注ぎました。
|
|
|
|
|