王府の管理体制の変化 |
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第二尚氏王統(注1)第三代の王・
尚真
は
官僚制
(
の整備に力をいれました。1526年、各地の
按司
(
を地域から首里城下に移住させ、各支配地域には按司の代理として、
按司掟
(
といわれる役人を
派遣
(
しました。 |
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1609年には
薩摩
(
(現
鹿児島県
(
)が琉球に攻め入り(注2)、琉球は薩摩の支配下に置かれ、米や砂糖などを納めなければなりませんでした。
薩摩侵攻は王国の政治、社会に大きな変化をもたらし、以後時代的には
古琉球
(
から
近世琉球
(
へと変わっていくことになります。 |
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この時代になると、王府や薩摩の役人は、宿道を通って各地をまわり、番所を宿泊や休息所として利用しました。 |
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17世紀には、
摂政
(
の
羽地朝秀
(
(注3)によって、間切(現在の市町村)の再編成が行われ、間切数が増加しました。それに伴ともない番所の移動や新設が行われ、宿道のルートも大きく変わりました。また一八世紀前半の
蔡温
(
の時代には、さらに間切の中の
村
(
(現在の字)が新設されましたが、間切は、ほぼ明治時代まで変動はありませんでした。 |
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明治時代の恩納番所跡の恩納役所
[『写真集やんばる100年』] |
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新設間切と番所 |
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間切は現在の市町村の区画とほぼ一致しています。間切は、いくつかの村が集まってできています。新しい間切はもともとあった間切から分割してつくられました |
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この時代に新しくできた間切を見てみると、1666年に、
今帰仁
(
間切(現今帰仁村)から
伊野波
(
間切を新設、翌年
本部
(
間切(現本部町)に改名されました。本部番所は
渡久地港
(
に近い渡久地に置かれました。 |
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1673年に、
読谷山
(
間切(現読谷村)と
金武
(
間切(現金武町・宜野座村)の一部を分割して、
恩納
(
間切(現恩納村)が新設されました。
同年、
名護
(
間切(現名護市)の東部と
金武
(
間切を分割して、
久志
(
間切(現名護市)が新設されました。 |
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久志番所は当初、久志村に置かれましたが、1688年、東海岸から西海岸へと結ぶ道が開かれ、
瀬嵩
(
村に移されました。羽地間切(現名護市)の番所は
勘手納
(
港に近い親川村、名護間切(現名護市)の番所は
東江
(
村に置かれました。 |
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1673年には、
国頭
(
間切(現国頭村)と羽地間切を分割して、
田港
(
と間切を新設、後に
大宜味
(
間切(現大宜味村)と改名されました。番所は田港村から塩屋村に移されました。国頭間切の番所は
浜
(
村から
奥間
(
村に移されました。 |
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やんばるは山地が多く、陸路より海路が発達していたため、港の近くに番所が置かれました。 |
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やんばる市町村変遷図 |
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沖縄本島の間切と方 |
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用語解説 |
(注1)第二尚氏王統 |
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琉球を統一した尚巴志の王統を第一尚氏王統といい、7代目尚徳王の時代に金丸が王位をつぎ、尚円と名乗りました。これを第二尚氏王統といい、最後の王尚泰まで19代409年続きました。 |
(注2)薩摩侵攻 |
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1609年、約3千人の薩摩軍が琉球に侵攻し、兵力をもたない琉球はあっけなく降伏し、以後、薩摩支配下におかれ、検地が行われ、琉球王国は8万9千石余が課せられました。 |
(注3)羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう) |
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1617〜1675。1666年摂政に就任すると、国家再建のため倹約や開墾の奨励などの諸改革を断行しました。史書『中山世鑑』の編者としても知られ、布達した法令集は「羽地仕置」としてまとめられています。 |
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