浜道の多い街道 |
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金武から久志への
国頭方
東海道
(
の道筋は山が多く、
浜道
(
が宿道として利用され、通行不能な区間は舟による海上の道が利用されまし
た。この地域は、王府時代、首里城建設用材や
造船
(
用材を産出する重要な地域であり、
山奉行
(
(注1)が山を視察してまわった奉行道も数多く残されています。 |
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王府時代の金武間切は、現在の金武町はもとより恩納村の大部分、
宜野座
(
村、名護市の一部を含む、広大な地域でした。 |
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金武間切は
東宿
(
がやんばるへのびる最初の地域で、「金武やんばる」と呼ばれました。金武の宿道は多くの
組踊
(
の
道行
(
(注2)にも登場します。 |
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歩みかねたる七日浜 |
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金武の宿道は、
七日浜
(
と呼ばれる長い砂浜をたどる難所でした。七日浜から約8キロは河川が多く、海浜の道を歩き、それを過ぎると海岸を離れ山道を上り、左手山手の金武番所(注3)のある金武村(現在の字金武)へ向かいます。山道のヤハズ(字金武の西側辺り)の美しい松並木の道は金武の馬場へと通じていました。ヤハズの松並木はすっかり姿を消し現在は国道329号が通っています。 |
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金武の番所を出ると現在宜野座村となっているあたりを通って、
潟原
(
の遠浅の海岸を渡り、久志へ至ります。 |
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復元された辺野古の一里塚 |
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かつては塚と塚の間を旧道が通っていたそうです。実物は米軍基地内に残っています。 |
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久志の道筋 |
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久志間切の番所は、当初久志村に置かれていました。その頃久志間切の東海岸から西海岸へ抜け出る道がなかったため、羽地間切へ行くには、辺野古から山道をぬけ、東江の名護間切に出ました。そのため、名護間切は東宿と西宿の両方の宿次の通過点となり、両方の業務を果たすこととなり、過重な負担を強いられていました。名護間切の百姓の訴えが通り、わずか1カ月間の工期で、久志―羽地間の道が造られたといわれます。 |
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1688年、東の
瀬嵩
(
村から羽地大川を通る羽地間切を結ぶ道が開かれ、番所も瀬嵩村に移されました。 |
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東村ができたのは1923年のことで、王府時代から近代にかけては久志間切の一部でした。この辺りは「
琉球国絵図
(
」を見ると、
大浦
(
村あたりに一里塚、
天仁屋
(
村あたりにも一里塚があり、さらに
慶佐次
(
と有銘あるめの途中の一里塚を経て
川田
(
村に続く陸路が確認できます。 |
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北へ向かう陸路はここまでで、川田村から
安波
(
村へ四里の海上の道が記されています。この地域は戦後、軍道が走るまで、長く船が利用されていました。 |
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元禄国絵図に記載された国頭方東海道の道筋 |
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用語解説 |
(注1)山奉行 |
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山林竹木を管掌する首里王府の役職で、山林を巡視して監督していました。17世紀に設けられたらしいが年代は不明。 |
(注2)組踊の道行 |
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組踊「久志の若按司道行口説」にも「久志の山路分け出でて、行けば程なく金武の寺、御宮立ち寄り伏し拝み……イサヤ、イサヤと立出て、伊芸や屋嘉村行き過ぎて、歩みかねたる七日浜……」と歌われています。 |
(注3)金武番所 |
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1853年、アメリカ海軍のペリー提督一行が金武間切を訪れている。その記録『ペリー提督日本遠征記』には、金武番所について「我々がかつてみたどれよりも立派」と記されています。 |
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