| 1978年7月30日午前6時、それは沖縄道路史上、空前の瞬間でした。戦後から続いてきた車の「右側通行」がいっせいに「左側通行」になったのです。これまで車道の右側を走ってきたバスが、タクシーが、マイカーが、オートバイが、この日このときを境に、すべて左側を走りはじめました。これが有名な「ナナサンマル」です。
「ナナサンマルの前日は雨でね。準備がたいへんでした」と語る北部国道事務所の男性は、当時、北部国道事務所で路面区画線の描き変え作業班リーダーとして、現場で陣頭指揮に当たっていたそうです。「描き終えた新しい左側通行用の区画線は、テープを貼って隠しておきました。ドライバーが混乱しないようにね」と語ります。また、そのテープをいっせいに剥がす作業がとても大変だったそうです。「この日は台風の余波で、すごい雨が降りまして、路面が濡れていました。バーナーであぶっても、なかなかテープがとけなくてね」と思い返していました。しかし、先延ばしにはできません。ナナサンマルは明日に迫っていました。
戦後の沖縄では「車両は右側通行」でした。米軍施政のもとでの「車は右、人は左」という交通ルールは、沖縄県民にすっかり浸透していました。本土復帰後も、しばらくこのままでしたが、日本国の「道路交通法」には「ひとつの国にはひとつの交通方法を」と定められており、「車両の左側通行への統一」は時間の問題だったのです。
その後、オイルショックの影響や海洋博開催などで何度か延期されながらも、ついに1978年7月30日に実施することに閣議で決まりました。1975年6月のことでした。
それからの3年間は、沖縄をあげてのナナサンマルにむかう日々でした。信号機、道路標識、区画線などの交通安全施設の変更、交差点の改良、バス停の移設などの道路施設整備など、数えきれないほど多くの作業に、たくさんの県民が汗を流しました。バスやタクシーは開閉ドアの向きが反対側になるので、民間企業は新しい車両の開発にも力を注ぎました。
ラジオからは「ナナサンマルの歌」が流れ、街角から集会所、協同店までひと目のつく場所にはポスターが貼ってありました。「みんなでスタート730」のキャッチフレーズは誰もが知るところになったのです。
当時、50歳だった名護市在住の男性は、名護市でナナサンマルを体験した一人でした。「賛成の人もいましたが、反対の声もありました。「世界の大勢は右側通行なのに」とか「本土が右側にすればいい」という意見を聞きましたね。強制されて変えられるのですから、歯がゆさがありました。」と男性は語ってくれました。区の交通安全友の会に参加し、啓蒙運動や交通法規の学習会を何度も行ったそうです。その日を無事に迎えるために、さまざまな人が努力していました。
7月30日午前6時の時報とともに、沖縄全土で、車のクラクションが鳴り響きました。そして、すべての車両が左側を走りはじめたのです。ナナサンマルの熱い一日の幕開けでした。全国から集められた3600人の警察官が交通整理に当たり、誰もが緊張を強いられたそうです。各地の主要道路で渋滞が起き、バス事故が多発した、と記録に残っています。
名護市在住の男性は、「当日の朝は、頭の中でテストを済ませてから、実際に城十字路まで走りました」と、その日のことを振り返りました。また、当時18歳だった那覇市在住の男性は「バイクで右折したとたんに、思わず右側レーンを走っていました。あわてましたね」と、まるで昨日のことのようです。
事故が少なくなり、誰もが安心して運転できるようになるまで数ヶ月かかった、と言われています。
ナナサンマルは、沖縄にとって一大事業であっただけでなく、全国規模でみても比類のない挑戦でした。これを成功させた最大の要因を私は「県民と行政がひとつになって協働できたこと」にあるのではないか、と考えています。
また、そのために積み重ねた努力とアイディアを思うと、かかわった人々すべてに敬意を感じてしまいます。
現在、沖縄を訪ねてくる本土の観光客が、また本土を訪れる沖縄県民が、安心して自然に運転できるのは、このナナサンマルの成功があってのことなのです。 |