やんばる国道物語
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やんばる疎開への道
収容所から始った戦後
1941年に始まった 太平洋 ( たいへいよう ) 戦争は、1945 (昭和20)年にはいると、米軍機の 空襲 ( くうしゅう ) が激しくなり、 四月一日には沖縄本島中部西海岸に米軍が上陸、 侵攻 ( しんこう ) を開始しました。 米軍と日本軍の主な戦場になると考えられていた沖縄本島南部から三万人にも上る沖縄住民は本島北部へ 行く道を頼りにやんばるへ 疎開 ( そかい ) し、山中に 隠 ( かく ) れていました。しかし沖縄本島全域で激しい 戦闘 ( せんとう ) は続き、 飢 ( う ) えとマラリアで苦しんでいた 住民たちは、次々と米軍に 降伏 ( こうふく ) して、やんばる各地に設置 された 収容所 ( しゅうようじょ ) に収容されました。北部に 攻勢 ( こうせい ) をかけた米軍は4月20日ごろまでに北部全域を 占領 ( せんりょう ) しました。 米軍は中南部の 知念 ( ちねん ) ・コザ・ 前原 ( まえはら ) の他、 石川 ( いしかわ ) (石川市)・ 田井等 ( たいら ) (名護市)・ 辺土名 ( へんとな ) (国頭村)・ 漢那 ( かんな ) (宜野座村)・ 宜野座 ( ぎのざ ) (宜野座村)・ 古知屋 ( こちや ) (宜野座村)・ 大浦崎 ( おおうらさき ) (名護市)・ 平安座 ( へんざ ) (与那城町)などやんばる地域に多くの難民収容所を設けて、住民を収容しました。戦闘を 逃 ( のが ) れた住民の多くは、日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日(現在の「 慰霊 ( いれい ) の日」)を、やんばるの各地の収容所で迎えることとなりました。
収容所は一般には「キャンプ」と呼ばれ、板敷のテントの中で人々がひしめきあっていました。 収容された人々には最低限の食料や医薬品が与えられましたが、十分ではなくマラリアや栄養失調で亡くなる人も 多かったといいます。また、 軍作業 ( ぐんさぎょう ) (米軍の割り当て作業)に 奉仕すれば 報酬 ( ほうしゅう ) として食料やタバコなどの 嗜好品 ( しこうひん ) を手に入れることができました。 しかし各収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止でした。出身地への帰住が認められたのは同年10月以降 のことでした。なかでも石川の収容所は 規模 ( きぼ ) が大きく、人口が3万人に もなりました。また、軍政府は各収容所から指導者を集めて、石川で住民代表者会議を開きました (沖縄 諮詢 ( しじゅん ) 会)。当時、石川は政治、経済、文化においても中心地 でした。 1946(昭和21)年4月、沖縄諮詢会は沖縄 民政府 ( みんせいふ ) となり、 宮古、八重山、奄美諸島にもそれぞれ民政府が作られました。1950年に米軍政府が琉球列島米国民政府 (略称・USCARユースカー)に改称されると、従来の民政府にかわり、群島政府が設立されました。 1951(昭和26)年、対日講和条約が締結され、沖縄は日本から切りはなされ、米軍の施政権下におかれ ることになりました。1952年、四群島政府を解消して、米民政府の下に琉球政府が置かれました。