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やんばる国道物語


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やんばる国道物語

王府時代の道 (15世紀〜1879年)


(10/12)

国頭方東海道

金武から久志・国頭へ(東海岸ルート 2)

 

浜道の多い街道
 

 金武から久志への 国頭方 くにがみほう 東海道 とうかいどう の道筋は山が多く、 浜道 はまみち が宿道として利用され、通行不能な区間は舟による海上の道が利用されまし
た。この地域は、王府時代、首里城建設用材や 造船 ぞうせん 用材を産出する重要な地域であり、 山奉行 やまぶぎょう (注1)が山を視察してまわった奉行道も数多く残されています。

   王府時代の金武間切は、現在の金武町はもとより恩納村の大部分、 宜野座 ぎのざ 村、名護市の一部を含む、広大な地域でした。
   金武間切は 東宿 あがりじゅく がやんばるへのびる最初の地域で、「金武やんばる」と呼ばれました。金武の宿道は多くの 組踊 くみおどり 道行 みちゆき (注2)にも登場します。
   
歩みかねたる七日浜
   金武の宿道は、 七日浜 なのかはま と呼ばれる長い砂浜をたどる難所でした。七日浜から約8キロは河川が多く、海浜の道を歩き、それを過ぎると海岸を離れ山道を上り、左手山手の金武番所(注3)のある金武村(現在の字金武)へ向かいます。山道のヤハズ(字金武の西側辺り)の美しい松並木の道は金武の馬場へと通じていました。ヤハズの松並木はすっかり姿を消し現在は国道329号が通っています。
   金武の番所を出ると現在宜野座村となっているあたりを通って、 潟原 かたばる の遠浅の海岸を渡り、久志へ至ります。
  復元された辺野古の一里塚
復元された辺野古の一里塚
 
かつては塚と塚の間を旧道が通っていたそうです。実物は米軍基地内に残っています。
   
久志の道筋
   久志間切の番所は、当初久志村に置かれていました。その頃久志間切の東海岸から西海岸へ抜け出る道がなかったため、羽地間切へ行くには、辺野古から山道をぬけ、東江の名護間切に出ました。そのため、名護間切は東宿と西宿の両方の宿次の通過点となり、両方の業務を果たすこととなり、過重な負担を強いられていました。名護間切の百姓の訴えが通り、わずか1カ月間の工期で、久志―羽地間の道が造られたといわれます。
   1688年、東の 瀬嵩 せだけ 村から羽地大川を通る羽地間切を結ぶ道が開かれ、番所も瀬嵩村に移されました。
   東村ができたのは1923年のことで、王府時代から近代にかけては久志間切の一部でした。この辺りは「 琉球国絵図 りゅうきゅうくにえず 」を見ると、 大浦 おおうら 村あたりに一里塚、 天仁屋 てにや 村あたりにも一里塚があり、さらに 慶佐次 げさし と有銘あるめの途中の一里塚を経て 川田 かわた 村に続く陸路が確認できます。
   北へ向かう陸路はここまでで、川田村から 安波 あは 村へ四里の海上の道が記されています。この地域は戦後、軍道が走るまで、長く船が利用されていました。
  元禄国絵図に記載された国頭方東海道の道筋
元禄国絵図に記載された国頭方東海道の道筋
   
   
 
用語解説
(注1)山奉行
  山林竹木を管掌する首里王府の役職で、山林を巡視して監督していました。17世紀に設けられたらしいが年代は不明。
(注2)組踊の道行
  組踊「久志の若按司道行口説」にも「久志の山路分け出でて、行けば程なく金武の寺、御宮立ち寄り伏し拝み……イサヤ、イサヤと立出て、伊芸や屋嘉村行き過ぎて、歩みかねたる七日浜……」と歌われています。
(注3)金武番所
  1853年、アメリカ海軍のペリー提督一行が金武間切を訪れている。その記録『ペリー提督日本遠征記』には、金武番所について「我々がかつてみたどれよりも立派」と記されています。
   

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