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琉球政府時代の道 (1945年〜1972年)
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交通機関の発達とバス
ヒッチハイクからバスへ
| 戦後の交通の始まり |
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沖縄では、戦後しばらくの間、各地に
通行禁止区域
があり、住民は、自由にどこへでも好きなように移動することは許されていませんでした。
交通手段も徒歩か米軍トラックの
拾
(
い車(ヒッチハイク)ぐらいなもの
で、住民の足として
荷馬車
(
の役割は重要でした。また、荷馬車は
戦後
復興事業
(
の道路工事等の
資材運搬
(
や住民の間の
運送業務
(
にも使われて、
最盛期
(
には数千台(頭)の荷馬車が沖縄中を
往き来していました。
運転免許の始まりは、米軍
車輌
(
の運転手などを行う際に、ライカム
(米軍司令部)交通規則に基づいた
運転免許証
(
(MG免許等)が
発給
(
されたものでした。その後、1946年に
民間車輌の運行が開始されると、民政府の工務部陸運課が運転免許を扱うようになり、民間の免許制が始まりました。このように、軍民2種類の免許が有効でした。1953年以降は、民間人も一般外国人も米軍施設外で運転する場合は民免許が必要になりました。 |
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| 公営バスから本格バスへ |
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公共交通機関
(
としてバスが登場したのは、1947年8月のことでした。米軍トラック(GMC2トン半)20台が
民政府
(
に提供され、バスの運行が始まりました。バスに使われたトラックは、
幌
(
と後方に
昇降階段
(
をつけた
改造
(
バスでした。
路線
(
は、当時民政府のあった
知念
(
村を
起点
(
に、
島尻
(
一周線、
名護西
(
線、
名護東
(
線、
瀬嵩
(
線、
与勝
(
線、名護を起点とした
辺土名
(
線、
本部半島
(
一周線の七線が運行されていました。
人々の生活が安定してくると
唯一
(
の交通機関であるバスの
需要
(
は
急激
(
に増えていきました。しかし、
道路が
舗装
(
されていないために、時にはひどい砂ぼこりで一メートル先
が見えないぐらいになりながらデコボコ道を
揺
(
れながら行くバスの乗りごこちは快適とは言えませんでした。
また、一号線は恩納村
冨着
(
に、13号線は
金武
(
村
屋嘉
(
、島尻一周線は那覇
航空隊
(
第一、第二ゲートの各MPポスト(米軍憲兵詰め所)で米軍のドル、タバコなどヤミ
物資
(
を持っていないかの
検問
(
があり停車しました。
1950年になると、
公営
(
バスだけではますます高まる
輸送
(
需要に対応できないので、民間企業として「合同バス」「沖縄バス」「首里バス」の三社が設立されて、公営バスは廃止されました。民間バスは、ガリオア資金によって、日本本土から大型バス59台が輸入されました。こうして民間の参入により、戦後沖縄で本格的なバス交通がスタートしました。 |
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米軍トラックを利用した改造バス1950年〔小湾字誌編集委員会] |
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米軍発行の通行証 裏は英文で書かれている[月刊沖縄社] |
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名護大通り。那覇行きのバスが発車しようとしている
(1954年3月18日)[月刊沖縄社] |
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やんばる国道物語(北部国道事務所) |
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