| 台風被害 |
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沖縄本島の西海岸沿いを走る一号線は、道路が開通した当初から、台風の襲来のたびに高波の被害を受けてきました。1950年代の新聞では、毎年のように、台風被害・大雨被害で、護岸の決壊や土砂くずれがおきています。復旧作業が長引いて、バスや車が長期間にわたって通行止めになることもありました。
1951(昭和26)年のマージ台風(注1)による被害は、恩納村から国頭村辺土名に至る十数か所に及んで、道路、護岸、排水、橋の復旧工事や拡張工事が必要になりました。一号線は各地で通行止めになり、そのため名護―許田間を船で渡す海上輸送も行われました。
相次ぐ道路の復旧工事の膨大な費用は米陸軍省予算によるものでした。セメント・パイプ類、鉄筋橋梁用鉄材などの資材は、米軍から支給されることで、復旧工事は行われました。道路が復旧された事は、北部地域経済の大きな助けとなりました。
一応の復旧工事が完成したのは、1953(昭和28)年です。道路は以前と比べるとだいぶ補強されましたが、毎年やってくる台風の被害にはあいかわらず悩まされ続けました。1954年にはグレース台風、ジェーン台風など大型台風が続けてやってきて、再び道路は、護岸の決壊、がけ崩れなどで交通が遮断されました。 |
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| 海岸護岸 |
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毎年やってくる台風の高波を防ぐためには、丈夫な海岸護岸を新たに築く必要がありました。1956(昭和31)年9月にやってきた、エマ台風、ワンダ台風では、海岸護岸に大きな被害がもたらされました。その対策として1958年以降は、従来の石積護岸がや無筋コンクリート護岸を鉄筋コンクリート工法に改めて、護岸の強化を図はかりました。
1964(昭和39)年当時の海岸護岸の様子を見てみると、北部の護岸のうち既に築かれているのは2万2897メートルで、復旧、新設を必要とする護岸がまだ8846メートルもありました。このように台風対策の工事は進められていましたが、台風接近による、道路浸水や護岸の決壊による、道路浸水や護岸の決壊などによる交通止めは後をたちませんでした。 |
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マージ台風による名護市数久田のがけ崩れの復旧作業
(1951年)[名護市史] |
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豪雨により名護市内の道路が水浸しになりました。
(1960年代)[名護市内] |
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大宜味村と国頭村の間に架かる屋嘉比橋が台風で決壊、
不通となりました。(1960年代)[国頭村] |
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用語解説 |
(注1)マージ台風 |
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グレースやジェーンなどのように米国では台風に女性の名前がつけられています。その後男性の名前も命名するようになりました。 |
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