| 「沖縄デー」から復帰まで |
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対日講和条約(サンフランシスコ条約、1951年9月締結)が発効した1952(昭和27)年4月28日は「沖縄デー」と呼ばれて、沖縄が本土とは異なる行政体制をしくこととなった日として人々に記憶されています。その後、沖縄では復帰の年まで毎年、国頭村辺戸から糸満まで、平和行進が行われるなど、復帰を求める運動は次第に高まりを見せていました。
1969(昭和44)年、佐藤首相・ニクソン米大統領会談で、1972(昭和47)年に沖縄が復帰することが決定しました。北部地域においては、1970(昭和45)年には名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村の五町村が合併し、沖縄北部の中核をなす「名護市」が誕生しました。1972(昭和47)年5月15日、沖縄は本土に復帰し、「アメリカ世からヤマトの世」へと、新たな一歩を踏み出しました。 |
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1号線を行く復帰を要求するパレード(大宜味村)[呉屋良延] |
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「新沖縄県発足式典」の様子。琉球政府の解散と沖縄県の発足が宣言されました(1972年5月15日)[沖縄タイムス社] |
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| 沖縄振興開発計画 |
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沖縄は、戦後二七年間の長きにわたりアメリカ統治下に置かれたため、本土との経済的格差がいちじるしく、復帰後の沖縄振興は、まず初めに
格差是正
から始めなければなりませんでした。そのために、沖縄振興開発特別措置法(注1)が1971年、施行され、同法を効率的に遂行するために、「沖縄振興開発計画」(注2)がつくられました。同計画は第1、2、3次にわたり、第1次計画(72−81年度)では、基本的な社会資本の整備に主眼がおかれました。戦後の人々の生活の復興に深く関わり、整備されてきた沖縄の道は、本土復帰とともに新たなスタートを切ったのです。 |
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復帰直後の北部国道事務所が置かれた材木店の建物 |
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| 道路管理者の移管 |
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復帰に伴い、道路の管理者もそれまでの米軍から日本国に移管されることになりました。復帰当日の5月15日、国の出先機関として、沖縄総合事務局が設置されました。同事務局の業務のうち、北部地域の国道を管理する担当部署として、北部国道事務所が併せて設置されました。北部国道事務所のスタートは、決して楽なものではありませんでした。名護市内の材木店の二階を借り上げて庁舎とし、椅子や机、人員も満足にそろわない中で、北部地域の国道の管理業務は始まったのです。 |
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沖縄振興開発事業費
(昭和47年〜平成13年度の累計額の内訳)
沖縄振興開発は1次から3次まで計画されています。第2次計画(82─91年度)では、本土との格差是正とともに、自然環境を生かした観光産業の発展に力が注がれました。第3次計画(92─2001年度)では、沖縄の独自性を生かした産業や経済振興が新たな目標とされました。これらの計画では、総額6兆7545億円の国費が投入され、数々の施策が講じられてきました。このうち道路関係では、2兆4144億円(全体の35.7%)の額が投入され、道路交通網は着実な発展を遂げることとなりました。 |
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用語解説 |
(注1)沖縄振興開発特別措置法 |
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1971(昭和46)年に制定された、復帰後の沖縄振興を進めるための法のこと。10年の時限立法であったため、その後、82年(昭和57)、92(平成4)年に延長されています。主務官庁は沖縄開発庁(2001年から内閣府沖縄担当部局)で、同庁の沖縄での機関が沖縄総合事務局です。
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| (注2)沖縄振興開発計画 |
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本土との早急な格差是正、自立的発展の基礎的条件の整備、わが国の経済社会および文化の発展に寄与する特色ある地域として整備することなどを目標としています。 |
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