昔、奈良のあるお寺に、若いお坊さんがいました。たいへん優れた人だったのですが、「こいつを行かしておくと、いつかこいつに政治を握られてしまい、あとはどうなるかわからない」と、お寺の上役たちは不安がり、このお坊さんを殺すたくらみが進められました。
この上役の悪だくみを知った若い坊さんの仲間たちは、知らないうちに命を
狙(われているお坊さんを救うために、こう説得しました。
「あなたはここにいたら命がない。たいへん危険である。あなたの命をわれわれにください。死んだつもりで命をください」するとお坊さんは「みなさんがそれほど言うなら好きなようにしなさい」と答えました。
それで仲間たちは頑丈(な箱を作り、食料をたくさん詰(めて、お坊さんを中に入れて、そのまま海に流してお寺から脱出させました。
箱は波に流されて、はるか遠く南の島・沖縄北部の金武(の浜に漂着(しました。そのころ金武の村では、7歳から12、13歳の子供たちがたびたび行方不明になっていて、村人は原因が分からず、不安な毎日を過ごしていました。村の人たちみんなで、六尺棒(を持って子どもたちを捜(しまわっていたところ、海から大きな箱が流れ着いていたので、箱を引き上げて中を開けたら、お坊さんが出てきました。村人は大変驚きましたが、そのお坊さんを村に案内しました。
するとお坊さんは「この村には人を食べるジャー(蛇()がいる。たびたび子供がいなくなっていませんか。一人歩きは危ないですぞ」と、村人に警戒(をうながしました。そして洞窟(の前でお経を唱えると、ジャーが出てきて、その場のたうち苦しむとやがて死んだそうです。
そこで村人はお坊さんに「ぜひここにお寺をつくり、お守りください」とお願いしました。それが、いまの金武の寺だということです。
このお坊さんは、実は、真言宗((空海が中国から密教(を伝えて開いた仏教の一宗派)の日秀上人(だといわれ、「沖縄大百科事典」や「拝所回り200選」では次のように記されています。19歳のとき人を殺してしまい、出家した日秀上人は、修行の場として有名な高野山(に入り、ついに密法の奥義(をうけます。
さらに、観音所在(の浄土(を求めるために、小舟に乗って手に香炉(を捧(げ、風波にまかせてたどり着いたのが、南の島沖縄の那覇だということです。
また、金武の富花(の港に着いて、ここを観音浄土として宮を建て祀(ったとも伝えられています。 |