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やんばる国道物語

近代沖縄の道(1879年〜1945年)


(8/11)

荷車・人力車・馬車

大量に物を運ぶ

 

人力車 ( じんりきしゃ ) 登場から 馬車 ( ばしゃ ) へ
 

 沖縄県に人力車が登場したのは、1886(明治19)年に 導入 ( どうにゅう ) された 知事 ( ちじ ) 専用車といわれています。その後、民間にも 普及 ( ふきゅう ) し、 沖縄県は88(明治21)年に「人力車営業 取締規則 ( とりしまりきそく ) 」 を制定しました。ピーク時の1913(大正2)年には人力車は1767台にも上りました。そのうち那覇と 首里が1583台、残り184台が、 糸満 ( いとまん ) 、 与那原 ( よなばる ) 、 嘉手納 ( かでな ) 、 名護 ( なご ) を合わせた保有台数でした。しかし、その後自動車や鉄道などが 登場し 衰退 ( すいたい ) しました。
明治30年代後半には、一部地域で馬車が登場するようになります。馬車が通るには道幅が確保されなけれ ばならず、また道を 平坦 ( へいたん ) にしなければなりませんでした。 このため、道路の整備が急がれました。那覇区では、 街路 ( がいろ ) が 狭 ( せま ) く、人や人力車、荷馬車の往来が 頻繁 ( ひんぱん ) で、道が混雑して交通渋滞になるのを防ぐため、1908(明治41)年、 左側通行を定め、 実施 ( じっし ) されました。

   
 
  大正初めごろの那覇の繁華街[『むかし沖縄』]
   

荷馬車は運ぶ

   国頭郡内では名護を除き、大正の初めまで荷車が 唯一 ( ゆいいつ ) の 輸送機関 ( ゆそうきかん ) でした。その後、荷馬車が登場し、 トラックが普及するまで陸上 貨物輸送 ( かもつゆそう ) 機関として活躍しました。 砂糖 樽 ( たる ) や 薪炭 ( しんたん ) 類、 竹 ( たけ ) の束、竹ガヤなどを目的地まで運び、帰りには 隣 ( となり ) 近所から 頼 ( たの ) まれた物を買いそろえ、馬の歩みに任せて家路に つくという光景が見られました。
1915(大正四)年の春先、国頭街道の開通により、那覇を起点にのびている主要道路のほとんどで荷馬車が 通れるようになりました。また同年、名護に乗客を乗せる客馬車が進出しました。この客馬車は一頭の馬がひく 幌 ( ほろ ) 馬車で、六人乗りでした。沖縄県での客馬車の導入は、1902 (明治35)年ごろ、那覇−首里間で開通したのがはじめです。
  客馬車は 御者 ( ぎょしゃ ) が小さいラッパを吹き鳴らしながら走行したといいます。 名護村 東江兼久 ( あがりえかねく ) にはターミナルが設けられ、旅客で 賑 ( にぎ ) わいました。しかし、馬車旅行は那覇までに途中二回も 駅逓 ( えきてい ) (馬を乗りかえること)があり、終日揺られ通しの旅は、 快適な旅とはいえませんでした。それでも、歩いて 二昼夜 ( にちゅうや ) かかった那覇−名護間が半日で行けるようになったことは人々にとってありがたいことで
した。
  恩納村は、名護と嘉手納の中間地点に位置していたことから、両地点までの客馬車が運行していました。東海岸にはまだ県道が開通していなかったことから、石川や金武からの旅客も、いったん西海岸へ出て、それぞれの目的地へ向かいました。鉄道ができてからは、那覇へ行く客は、駅のある嘉手納まで客馬車を利用しました。
   
 
  名護の久志商店。店の前に人力車が駐車している(1921年頃)
[『望郷沖縄』]
 

 

  国頭郡の年次別諸車台数
   
 
 

さとうきびを運ぶ荷馬車

[戦車の「黒砂糖」パンフレット]

   

やんばる国道物語(北部国道事務所)

 

   
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